ロバート・キャパを知っていますか?
今のような時代ではなく、まだ映像で伝えることがむつかしい時代に戦争の中を生きる人々を取り続けた写真家でした。
スペイン内戦と第2次世界大戦をカメラにおさめたカメラマン
戦争の中、生活する人々の表情や、ピカソやヘミングウェイの著名人の飾らない表情も数おおくのこしました。
ロバート・キャパ(本名・アンドレ・フリードマン・ベルギー)1913・10・22ー1954・5・25
戦場カメラマン 世界的写真家集団「マグナム・フォト」の創設者の一人として、伝説の「ロバート・キャパ」
ジャーナリスト志望だったロバート・キャパが写真家になったのは運命のいたずらだった。
独裁者ホルティによる共産主義弾圧・ユダヤ人追放政策になって、共産主義者の嫌疑をかけられたキャパは10代で祖国ハンガリーを追われ、ベルリンにいきます。
お金が無くなったキャパは、写真通信社「デフォルト」の暗室助手の仕事になります。
キャパはのちに「私は写真家になる決心をした。ドイツ語も書けず、ろくにしゃべらない者がジャーナリズムに近づく
それがもっとも手っ取り早い方法だったからだ。と回想しています。
ロバート・キャパの写真人生
暗室助手兼雑用係として働きながら、徐々に才能が認められたキャパは、やがて上司に渡されたライカでおおきな仕事をまかされる。
1932年のトロッキー演説の取材だった。
銃を隠せる大型カメラを嫌った警備陣のすきをついて、小型のライカA型 のおかげだった。
ナチスの台頭でベルリンを追われたキャパが向かったのはパリだった。
そのパリで二人の親友を得る。
彼の写真人生に影響する二人だった。
その若者たちは三銃士とよばれ、第2次世界大戦後、写真家集団マグナムを・フォトを結成するアンリ・カルティエ・ブッソンとディビット・シーモアでした。
パリでは女神との出会いもあった。
女神はキャパのキャリアにおおきな転機をもたらし出会いでした。
ゲルタ・タロー キャパが生涯、唯一本気で結婚を望んだこの赤毛の美女
彼女は無名の彼に、まず身なりを整えることを教え、写真家ロバート・キャパをふたりで創造していきました。
タローはカメラの扱いをキャパから、教わった。。
タローが自分の名前で撮影するようになるまでは、彼女の撮った写真もキャパの名でだされていた。
二人で一人のユニット名でした。
スペインのゴルドバでキャパが有名な「崩れ落ちる兵士」を撮ったのもこのユニット時代でした。
スペイン内戦取材中はタローの不幸な事故死がありました。
キャパがスペイン内戦の仕事で、一躍世界一の戦争写真家の称号を得て
タローが愛用していたローレライを兼用するようになりました。
キャパは死ぬ前に日本にきていた。
1954年キャパは毎日新聞の依頼でしていました。
急な依頼でインドシナに予定変更してむかいました。
そして殉職しました。
真実が最高の写真なんだ。
それは最高のプロパガンダでもある
(プロパガンダ)主義や思想を広める宣伝・喧伝
生きる確率が50%もあるなら
僕は迷わずパラシュートで写真を撮りに降りてゆく
(キャパの言葉より)