明治42年8月新聞に、病気治療中であった、前京都帝国大学総長・木下広次法学博士「透見法」なる術を発見した御船(河内)千鶴子という女性から、不可思議な治療を受けたという記事がでました。
朝日新聞「不思議なる透見法」東京1909年。8月・14日、朝刊、p5
この透見法とは、とは「厳封した袋の中は言うに及ばず、鉱物のごとく、または身体のごときもその内容を、探りえるというもので、いわゆる透視です。
こういう記事でした。
透視能力者・三船千鶴子
催眠状態においては、しばしば定常時と比べ知覚が鋭敏になることもありますが、千鶴子は義兄の清原猛雄から催眠術を施され、透視ができるとの暗示が与えられて、この能力が与えられて、この能力を得たとされます。
木下は、京都帝国大学医科大学教授であった今村新吉博士に千鶴子の能力の研究をすすめました。また福来のもとへも、別のルートで実験の誘いがありました。
この御船千鶴子は世の注目を集めた「千里眼」の題1号になるのでした。
福来友吉~透視と念写
千里眼事件は明治43年(1910年)から翌年にかけて起こりますが、大正2年()1913年に一連の千里眼実験について、福来博士が発表した本です。
序文には「ガリレオは幽閉の身になっても、その研究を怠らなかった。
余にはいかに月並み学者からの、迫害を受けたからとて、学者の転職として信じる道を踏まずにはいられぬ。
と、悲壮な覚悟をのべています。
念写は事実である
発表が遅れた理由として、ほかの学者の実験に対して結果ができる程度に能力者の透視能力が発達しなかったこと。
御船千鶴子・長尾郁子があいついで死亡し、強力な能力者が得られなかったこと。
恩義のある人物から、発表を見合わせるように忠告を受けたことの、三つをあげています。
千里眼の存在を認めなかった学会への、宣誓布告ともとれる内容で、福来の大学からの追放を決定づけたと
御船千鶴子(みふねちづこ)
1886年7月17日~1911年1月19日は熊本県宇城市不知火町にて、漢方医の家で生まれる。
生まれつきに右の耳に難聴があった。宗教心が深く信仰(観世音菩薩)し、極度の集中力の持ち主であった。
1903年、姉の夫である清原猛雄が催眠術を行い始める。清原が「お前は透視ができる」と暗示をかけてみたところ、千鶴子に透視能力がでてくることになる。
日露戦争中の1904年6月15日、常盤丸がロシア帝国海軍に轟沈されるが「第六師団の兵士は常盤丸に乗船しているか?」を聞いたところ「第6師団は、いったん長崎を立つが、途中で長崎に引き返したので常盤丸には乗っていない」と答えた。
三日後に千鶴子の透視は的中していたと、明らかになる。
1908年7月、清原は千鶴子に催眠術に頼らなくても、深呼吸によって無我の境地になれば万物を投資できると告げて、毎朝練習するよう命じました。
その後、千鶴子は1時間に1度ずつ熱心に深呼吸を行うようにを行うように、10日ほどすると、庭の梅の幹の中に小虫がいるのを透視できるようになりました。
また、海水浴の際に海中で紛失した指輪を干潮時に透視によって発見するなど、卓越した透視能力をあらわします。
1909年5月・井芹が福来を訪ね、千鶴子の能力の研究をすすめます。
翌年2月には予備実験として郵送にによる投資実験がおこなわれました。
福来所有の名刺から、任意に19枚を選び、各名刺上の文字の全部または一部の表、または裏を錫箔で隠して、両面に白いカードを重ねて封筒に入れ、封じ目に小紙片を貼り認印を押して封をしたものを井芹に郵送し、千鶴子に郵送し透視を行わせました。
井芹から知らされた結果は・・?
このうち7通を二日間で透視し、完全的中3、一部の文字を誤るなどした不完全的中4というものでした。
透視のために精神集中した際に、睡眠状態に陥り3通は、火鉢の中に落として焼失してしまい残りのものについては、極度に心身を衰弱したため実験を終えてないとのことでした。
なお、錫箔の有無は結果に影響しませんでした。
1910年9月15日、物理学の権威で東京帝国大学元総長の山川健次郎が立会いのもと、透視実験がおこなわれた
透視実験は、水道管(鉛管)を押しつぶし、内部に封入した紙片の文字を透視してもらうというものでした。両端はハンダで閉じる。
人々に背を向けたり、場合によっては千鶴子が別室で透視することを認めた、それまでの実験結果では説得力のないと考えた福来の発案でした。
20個の鉛管のうち3個を成功させたものの、それは山川の与えたものではなく、福来が千鶴子に与えたものでした。
新聞は千鶴子の透視能力、否定的な論調を強めていきました。
1911年、1月18日午後3時、服毒自殺を図り、翌日未明に死亡した・・・
享年24歳、地元では千鶴子の能力金に換えようとする実父と欲のない千鶴子の対立が背景にあるとみていました。